佛教良書の紹介 「ちょっとお耳を」
巷には、良書といわれる本が満ち溢れていますが、仏教に関する著書となると、難解な専門書や宗派の教義に関するものなど気軽には親しむことが難しいものが多いのですが、実は本願寺出版(本願寺派)をはじめ多くの出版社から心に響く素晴らしい本が出されています。
このページは、毎月住職が選んだ各界の先達の珠玉の言葉を紹介します。
良書の基準としては
①あくまでも自分の体験や考えたことを通して、釈尊のみ教えを味わっていること。
②仏教や阿弥陀仏の教えを先達や知識(師匠)の導きの中で、新たに気付かされる境地を展開していること
(読み応えや感動が伝わってくる本)
③高価でなく、手軽に購入できる本
出版社名とその電話番号、時価をお知らせします。
(現在の値段は各自お調べ下さい)
「ちょっとお耳を」
住職法話
2022-09-06
真実の他力本願とは
浄土真宗の他力本願という言葉は現代において大変誤解した受け取り方がされています。『自分は何も努力しないで他人の援助に頼るような生き方・考え方をすること』が多いと思います。
しかし親鸞聖人がこの他力という言葉に大切な意味を見出されました。
お釈迦様の教えの重要な考え方になるのが「縁起」という法則です。縁起とは、全ての万象は、相依相関して存在しているから常一主宰のものは何もない (諸法無我)のにこれに執着して苦しんでいる(諸行無常)のが人間の現実存在であると見抜かれたのが釈尊の考え方です。
更にもう一つ縁起の意味を釈尊は深めて考えています。『十二因縁』と言って、私たちの迷いや苦しみの原因(因縁)になるのが無明です。無明が根本になって五官や意識が形成されて、執着や迷いや怖れが生まれ、老病死の苦しみが結果として顕れるという捉え方です。
唯識という学問では、無明らから引き起こされる煩悩に汚染された意識を縁とした人間の営みからは苦しみしか生まれて来ない。だから仏道を実践して煩悩の炎をすべて滅し尽くさねばならないと考えました。
しかし、法然上人はこの人間の苦悩や迷いは、凡夫の世界だけのことではない。比叡山や南都の学生僧侶の世界でも同じである。煩悩に染まった汚れた価値観でいくら修業しても、逆に自分は人より高度な修行を修めたと自惚れたり、人より優れた境地に到達したと驕り高ぶっている人たちが出てきます。凡人より数年間苦業を行ったことで煩悩を超えたことにはならない。返って根深い自己執着にとらわれてしまうことになると見抜かれ、自力聖道門を縁としては迷いしか生まれないと説かれました。
親鸞聖人はこれを受けて、「凡聖逆謗斉回入 」と、これら凡夫も聖道門に励む者も等しく煩悩に沈み苦しんでいるのを見そなわし、阿弥陀仏は、深くこれを憐れみ、必ず救い取るための方法を五劫という長い間のご思惟を重ねて完成させて私たちに届けられたのが、如来の万徳を円満に備えた念仏であると説きます。
念仏は如来の清浄な業(浄業)を因縁としているので、煩悩具足の凡夫でも必ず浄土に生れ大菩提心を成就して仏果が得られるのだと受け止めました。
ですから私たちは、念仏に込められた如来の真実の心に出遇えた歓びに目覚めた時に、それまでの価値観や常識はすべて覆ります。お釈迦様・阿弥陀如来様によって作り上げられた本願の心を受けとめて、この私も浄土に生まれ仏の道を歩めるのだという新人の世界が広がってくるのです。
このようにして、心から望んで称名念仏する生き方が選ばれるようになると今までの煩悩によって歪められていた自分の生き方を心から恥ずかしく厭わしいもの、無用のものであったと考えが変えられ変化してきます。
(これを如来回向といいます)
※ 念佛は、自分の声の大小とか回数とかという自分の計らいでするものではありません。また逆に自分の信心や理解を他人と比較して躊躇することも必要ありません。なぜなら南無阿弥陀仏を称えるのは如来の計らいによって薦められているものなのだから、如来様と一緒に仏の行として称えているのだという堂々たる自信を持って称えて下さい。
◎念仏を心から信じた人はどうなるのか
平成十九年の寺の法話で北海道千歳市の前田政直さんの言行録を紹介しました。前田さんは四十歳まで仕事一筋の農家でしたが、妹に勧められてお寺で聴聞するようになりました。前田さんは元来自分の納得のいくまでは安易に受け入れることのできない性格でしたが一旦信じると家業を一年間棒に振ってまで門法に勤しみ、自分の琴線に触れた願船寺の徳橋真教住職に帰依して師の下に通い、薦める仏書を読み,お聖教や浄土三部経を身から離さず精密に究明するようになりました。
しかし師から「人と話をするのに高上りの気持で教えを説こうとするのは傲慢である。そのような者に念仏を説く資格はない。」と叱られてから彼の聴聞の姿勢は更に変わっていきました。
〇どこまでも謙虚で「ようこそ、ようこそお出で下さいました。私を御導き下さい。」と共に皆に頭を下げて教えを乞う姿勢を深めていきました。(恭敬心)
〇また例え相手のご法義の理解が未熟だったり、間違っていてもすぐに過ちを否定しないで同じ言葉から、ご法義のすばらしさを先師の言葉を引いて「素晴らしい」「勿体ない」「過分であります」と褒め続けました。
〇前田さんの世界から見ると全ての人が皆尊く輝いて見える。全ての人を仏さまと敬い、尊い教えを共に歓び、お礼を申されている人。まるで弥陀の第二十二番の本願の普賢菩薩の徳を身に着けた生き方だと菩提寺の願船寺住職も讃嘆している
しかし親鸞聖人がこの他力という言葉に大切な意味を見出されました。
お釈迦様の教えの重要な考え方になるのが「縁起」という法則です。縁起とは、全ての万象は、相依相関して存在しているから常一主宰のものは何もない (諸法無我)のにこれに執着して苦しんでいる(諸行無常)のが人間の現実存在であると見抜かれたのが釈尊の考え方です。
更にもう一つ縁起の意味を釈尊は深めて考えています。『十二因縁』と言って、私たちの迷いや苦しみの原因(因縁)になるのが無明です。無明が根本になって五官や意識が形成されて、執着や迷いや怖れが生まれ、老病死の苦しみが結果として顕れるという捉え方です。
唯識という学問では、無明らから引き起こされる煩悩に汚染された意識を縁とした人間の営みからは苦しみしか生まれて来ない。だから仏道を実践して煩悩の炎をすべて滅し尽くさねばならないと考えました。
しかし、法然上人はこの人間の苦悩や迷いは、凡夫の世界だけのことではない。比叡山や南都の学生僧侶の世界でも同じである。煩悩に染まった汚れた価値観でいくら修業しても、逆に自分は人より高度な修行を修めたと自惚れたり、人より優れた境地に到達したと驕り高ぶっている人たちが出てきます。凡人より数年間苦業を行ったことで煩悩を超えたことにはならない。返って根深い自己執着にとらわれてしまうことになると見抜かれ、自力聖道門を縁としては迷いしか生まれないと説かれました。
親鸞聖人はこれを受けて、「凡聖逆謗斉回入 」と、これら凡夫も聖道門に励む者も等しく煩悩に沈み苦しんでいるのを見そなわし、阿弥陀仏は、深くこれを憐れみ、必ず救い取るための方法を五劫という長い間のご思惟を重ねて完成させて私たちに届けられたのが、如来の万徳を円満に備えた念仏であると説きます。
念仏は如来の清浄な業(浄業)を因縁としているので、煩悩具足の凡夫でも必ず浄土に生れ大菩提心を成就して仏果が得られるのだと受け止めました。
ですから私たちは、念仏に込められた如来の真実の心に出遇えた歓びに目覚めた時に、それまでの価値観や常識はすべて覆ります。お釈迦様・阿弥陀如来様によって作り上げられた本願の心を受けとめて、この私も浄土に生まれ仏の道を歩めるのだという新人の世界が広がってくるのです。
このようにして、心から望んで称名念仏する生き方が選ばれるようになると今までの煩悩によって歪められていた自分の生き方を心から恥ずかしく厭わしいもの、無用のものであったと考えが変えられ変化してきます。
(これを如来回向といいます)
※ 念佛は、自分の声の大小とか回数とかという自分の計らいでするものではありません。また逆に自分の信心や理解を他人と比較して躊躇することも必要ありません。なぜなら南無阿弥陀仏を称えるのは如来の計らいによって薦められているものなのだから、如来様と一緒に仏の行として称えているのだという堂々たる自信を持って称えて下さい。
◎念仏を心から信じた人はどうなるのか
平成十九年の寺の法話で北海道千歳市の前田政直さんの言行録を紹介しました。前田さんは四十歳まで仕事一筋の農家でしたが、妹に勧められてお寺で聴聞するようになりました。前田さんは元来自分の納得のいくまでは安易に受け入れることのできない性格でしたが一旦信じると家業を一年間棒に振ってまで門法に勤しみ、自分の琴線に触れた願船寺の徳橋真教住職に帰依して師の下に通い、薦める仏書を読み,お聖教や浄土三部経を身から離さず精密に究明するようになりました。
しかし師から「人と話をするのに高上りの気持で教えを説こうとするのは傲慢である。そのような者に念仏を説く資格はない。」と叱られてから彼の聴聞の姿勢は更に変わっていきました。
〇どこまでも謙虚で「ようこそ、ようこそお出で下さいました。私を御導き下さい。」と共に皆に頭を下げて教えを乞う姿勢を深めていきました。(恭敬心)
〇また例え相手のご法義の理解が未熟だったり、間違っていてもすぐに過ちを否定しないで同じ言葉から、ご法義のすばらしさを先師の言葉を引いて「素晴らしい」「勿体ない」「過分であります」と褒め続けました。
〇前田さんの世界から見ると全ての人が皆尊く輝いて見える。全ての人を仏さまと敬い、尊い教えを共に歓び、お礼を申されている人。まるで弥陀の第二十二番の本願の普賢菩薩の徳を身に着けた生き方だと菩提寺の願船寺住職も讃嘆している
あの古関裕而さんが「しんらんさま」を作曲していた
2020-08-13
今放映中の朝のNHK連続テレビ小説『エール』の主人公の古関裕而さんは、
朝ドラでは実名ではありませんでしたが、古関裕而さんは、福島市の大町に生まれ、幼馴染の野村敏夫(作詞家)・伊藤久男(歌手)と福島三羽烏として日本コロンビアレコードを拠点としてこれから大活躍をしていくストーリーになっています。
実際彼は高校野球でおなじみの「栄光は君に輝く」を始め、「高原列車は行く」「六甲おろし」~阪神タイガース応援歌~「長崎の鐘」等数々のヒットソングを作曲し、昭和の音楽史に名を刻んで来られたことは皆さんもご存じのことだと思います。
ところが今回六月二十日号の本願寺新報で初めて知ったことですが、古関裕而さんが、あの懐かしい「しんらんさま」を作曲していました。昭和三十五年真宗十派で組織する真宗教団連合は、親鸞聖人七百回大遠忌法要にあたり「聖人を仰いで、強く明るく正しく生きる生活のうた」を作ることになり、滝田常晴さんの作詞に古関裕而さんの作曲多くの人に愛される仏教讃歌が誕生しました。
更に昭和三十八年安芸教区登世岡主事の提案でココロンビアからレコード化されることになり、まだ若かりし島倉千代子さんが清々しく美しい声で歌っています。住職も家族や近所の子供達、婦人会の皆さんと一緒にこの歌を唄い、口ずさんだ思い出があります。
この度本山出版部では「日々のうた」の中にこの「しんらんさま」も収録してCDとして販売していますので、お盆や報恩講の時に皆さんと共に口ずさみたいと考えていますので、お楽しみにして下さい。
そよかぜわたるあさのまど
はたらくてのひらあわせつつ
なむあみだぶつとなえれば
しんらんさまはにこやかに
わたしのとなりにいらっしゃる
念仏の真実に出遇える本 ~ばぁばぁの目はほとけさま~
2017-06-27
海野公子著 自照社出版 1500円
はじめ、本の見出しを見たときには、子供向け童話の内容なのかと思いましたが読み始めると大変感動的で、念仏のみ教えに出遇い、真実の信心に目覚めていくことがこんなにひとの心を変え、育てられていく世界が広がるのか(これを回向といいます。)を生の体験と実践的な道を求めていく姿から、多くのことを学ばせていただきました。
著者海野さんは、薬剤師のお仕事をしていましたが、実家の父が大腸癌で苦しむ様を看取ります。このことがご縁になって、長野教務所の近くで開かれていた「死に死を考える会」に入り、末期医療や緩和ケアに念仏者としてどのように取り組んでいけば実りあるものになるかを模索している本願寺のビハーラ研修に参加し、続いて中央仏教学院で念仏の教えを六年間の長い間求め、学び続けます。
①ビハーラでは、築地別院でビハーラに取り組んでいる女性医師の「宮崎幸枝さん」の存在を知り彼女の紹介で、YBAS「ヤングブディストアソシィェーション」に入会して、多く法友を得る。
※宮崎さんは、医者は坊主であれ!の信念で末期患者に対してだけでなく、医療に従事するものやボランティアにも(お浄土があってよかったね!と念仏が説かれる如来様の真実の心、願いに目覚めさせる活動をしています。詳細については、次回その著書とともに紹介います。
②長野教区の門徒推進委員になった海野さんは、仏教讃歌のすばらしさに目覚めて、讃歌衆として「響流シュルカ」を結成して教区や本山で讃歌のすばらしさを披露しました。
③一人暮らしの母親が、認知症になり、グループホームに入所することになりました。最初のうちは、家に帰りたがり、見舞いに行けば怒り顔で接しられて大変苦しみましたが、宮崎幸枝さんの著書「お浄土があってよかったね」を繰り返し読んであげたり、会えないときは仏教讃歌のCDを職員に懸けてもらったりしているうちに、穏やかな顔つきになり、念仏を心から喜んでくれるようになり、安らかな往生を迎えました。
④その後も門徒推進委員、介護審査会、ビハーラ、保護司と多忙を極めたが、ある朝右目と左目が二重に見えるようになって、医者に診てもらったら、若い時にも罹ったパセドゥー氏病が再発して、眼球の筋肉が固まってしまった。そこで彼女は今まで身体を酷使してきたことを反省して、治療に専念することにした。最初は「なんでこんな!」と愚痴っていたが、病床の上で今まで読みかけていた大切な本や友人から送られてきた法話のテープをじっくり聞いているうちに、あれもこれも、多くの役職を背負って来た時には気づかなかったことが見えてきた。
●この世に生まれてきた意味は、世間の物差しを手放さない限り、見えて来ない。阿弥陀さまはどんな状況でも、いつもいつもお慈悲の心で私を見守り、救いの両手を差し出して下さっているのです。
●今まで忙しい時には、なかなかできなかった築地本願寺でのご法話を病院でじっくり聴聞して、それを活字に起こす作業を思い立つ。海野さんは、その作業を通して私たち布教に携わる者にも大切な次のことに気づきます。
●「今までのご聴聞は、レストランで言うとメニューだけを見て、ご馳走を食べてもいないのに「ああだ。」「こうだ。」と批評をしているようなもので、実際に味わってもいないのに、人の受け売りで話していることが多かったように思える。今病になって、み教えの一語一語をしっかりと手に取って一味一味をかみしめていただいていきます。」
●布教の大切さは、仏教の教義もさることながら、それを伝える『人となり』が大切であると思うようになりました。
●聴聞のありがたさは、み教えの確かさ、阿弥陀様のお慈悲の真っただ中に出遇えている幸せに気づかせていただくことである。
まさに珠玉の言葉ですが、この本には、まだまだ信心の喜びと法友たちと念仏を通して出遇えた心の交流の足跡が綴られています。どうぞご一読ください。遇法の輪は、限りなく広がっていきます。
響流十方とは
言葉の意味が分からなくても、漢字を見つめてつぶやいてみましょう。 何か清らかな響きが広々とした空間に流れてきませんか。
仏説無量寿経の中に伝えられているこんなお話があります。
遠く果てしない昔、インドに一人の修行者がいました。ある日のこと、師と仰ぐ仏様の光輝くお姿に、感動して詩を作り、覚りを得たわが師のお声は宇宙のすみずみに響き渡りますと讃えました。 そして私も師のような ほとけさまになろうと誓い、長い修行の末に阿弥陀というほとけさまになり、美しい音に満ちた光の浄土を建立しました。
遠く果てしない昔、インドに一人の修行者がいました。ある日のこと、師と仰ぐ仏様の光輝くお姿に、感動して詩を作り、覚りを得たわが師のお声は宇宙のすみずみに響き渡りますと讃えました。 そして私も師のような ほとけさまになろうと誓い、長い修行の末に阿弥陀というほとけさまになり、美しい音に満ちた光の浄土を建立しました。
《「お念仏の心」~阿弥陀経に聞く》 ●岩手願教寺様での御法話要約
2017-04-18
本日はお彼岸の中日に当たりますが、お彼岸とは、昼と夜の長さが同じで、あの世と一番近い日なので、地獄の釜も開いて、ご先祖を供養する日と考えている方も多いと思います。
しかし、お釈迦様の教えでは、その眼目とする所がまるで違います。いったい、何がどのように違うのかを本日は、浄土三部経の一つである「阿弥陀経」に説かれてあることを中心にお話しさせていただきます。
しかし、お釈迦様の教えでは、その眼目とする所がまるで違います。いったい、何がどのように違うのかを本日は、浄土三部経の一つである「阿弥陀経」に説かれてあることを中心にお話しさせていただきます。
【1】阿弥陀経に説かれている此岸とは
阿弥陀経本論(正宗分)の締めくくりには、釈尊は、十方のあらゆる諸仏から、「この五濁悪の世に成就することも衆生が信受することも甚だ難しい中で、能く尊くこの上無い大菩提心を得ることのできる念仏の教えをお説き下さいました。」と称賛されていますが、阿弥陀如来の御本願の回向力の働き(衆生の心を『清浄』『歓喜』『智慧』の心を育てる力)を持つ念仏によって、此岸の五濁悪の世の拠りどころとする煩悩を捨て去り、仏の智慧による観る価値観に転換させられる世界が顕れて来ると説かれています。
此岸とは、自分の都合の善し悪しを価値として、分別して見える世界で、虚妄分(こもうふん)別(べつ)の世界と呼ばれます。その迷いの原因は、五濁悪世(※本文末尾註参照)と言われる時代や環境によって影響され、かつ私たち衆生の心に根付く煩悩によって、執着したり、怒ったり、迷ったりして考え方を捻じ曲げる偏見に陥ってしまうことで、正しいものを見出せず、更にそれを原因として、誤った行為、これを五逆、十悪と呼ばれる悲しい結果を引き起こしている。釈尊はこのような私たちの世界を諸行無常・一切皆苦と呼びました。
親鸞聖人は、このような私たちの虚妄分別の根は著しく深く、たとえ菩薩行の六波羅蜜(布施、忍辱、持戒、精進、禅定、智慧)の実践(※本文末尾註参照)により成仏を目指しても、自力の心(自分の欲得や手柄を当てにして仏道を修めようとしている考え)に立つ以上、驕慢心や懈怠心、罪福心などのより深い煩悩に苦しむことになると自らの求道生活の反省から見極めています。
此岸とは、自分の都合の善し悪しを価値として、分別して見える世界で、虚妄分(こもうふん)別(べつ)の世界と呼ばれます。その迷いの原因は、五濁悪世(※本文末尾註参照)と言われる時代や環境によって影響され、かつ私たち衆生の心に根付く煩悩によって、執着したり、怒ったり、迷ったりして考え方を捻じ曲げる偏見に陥ってしまうことで、正しいものを見出せず、更にそれを原因として、誤った行為、これを五逆、十悪と呼ばれる悲しい結果を引き起こしている。釈尊はこのような私たちの世界を諸行無常・一切皆苦と呼びました。
親鸞聖人は、このような私たちの虚妄分別の根は著しく深く、たとえ菩薩行の六波羅蜜(布施、忍辱、持戒、精進、禅定、智慧)の実践(※本文末尾註参照)により成仏を目指しても、自力の心(自分の欲得や手柄を当てにして仏道を修めようとしている考え)に立つ以上、驕慢心や懈怠心、罪福心などのより深い煩悩に苦しむことになると自らの求道生活の反省から見極めています。
【2】阿弥陀経に説かれているお浄土とは
①弥陀仏の今現在説法の世界
阿弥陀仏のお浄土の煌びやかで明るく美しい諸荘厳の様子。この浄土に生まれる人は、天楽と六鳥の美しい声や姿に囲まれている清らかで尊い宝池の中の朽ちることなく咲きほころびる青、赤、黄、白色の蓮華の花の元に誕生するといわれ、この世界は、自然に五根が清められ三悪道の煩悩が破られ、八正道が実践され、仏・法・僧の三宝に皆が帰依している世界であると説かれている。
阿弥陀仏のお浄土の煌びやかで明るく美しい諸荘厳の様子。この浄土に生まれる人は、天楽と六鳥の美しい声や姿に囲まれている清らかで尊い宝池の中の朽ちることなく咲きほころびる青、赤、黄、白色の蓮華の花の元に誕生するといわれ、この世界は、自然に五根が清められ三悪道の煩悩が破られ、八正道が実践され、仏・法・僧の三宝に皆が帰依している世界であると説かれている。
A・つまりお浄土の持つ強い力(浄業)で、全ての煩悩を離れて大菩提心を成就することが出来る世界である。
②阿弥陀仏は、
ア、光明無量(清浄、歓喜、智慧による真実が具現された仏)であり、
イ、過去現在未来の一切の衆生を誰一人漏らすことのなく救い取り、末通って必ず浄土で仏にさせてくれる意思と力を持っている無量の寿命の仏である。
イ、過去現在未来の一切の衆生を誰一人漏らすことのなく救い取り、末通って必ず浄土で仏にさせてくれる意思と力を持っている無量の寿命の仏である。
B・阿弥陀仏の浄土に生まれる衆生は、阿鞞跋致(あびばっち) (菩薩の不退転) の位につき、次の世には弥勒と等しく仏 (一生補処) になることが出来ると説かれる。
【3】念仏の勧め
C・自力の念仏や福徳(少善根)を因縁にしては、往生は不可である。
娑婆世界の善男子、善女人は、「この阿弥陀仏の本願の誓いを聞いて南無阿弥陀仏の名号を執持して、一心に称えれば、体失後即時に浄土に往生し、仏になることができるので、かの国に生まれたいと発願して、念仏申すべきであると説いている。」
※この段は、古来「来迎思想」と自力念仏が説かれているものとされてきたが、このお経では、引き続き、「不可為少善根福徳因縁」と説かれている。
私たち人間の煩悩にゆがめられた有漏な力では、阿弥陀仏のお浄土に往生する清らかな種にはなることが極めて困難であること。たとえば、驕慢心・懈怠心・疑蓋心等によって妨げられる。
阿弥陀仏の方から円融至徳の名号を与えて下さっていることに二心無く信受して、念仏する以外に往生の道は無いと聖人は説いておられるのです。
◎ナムアミダブツのお念仏は、弥陀招喚・釋迦発遣の呼声であり、「必ず救う、そのまんま来いよ。」と誓って下さる言葉なのである。
◎自分の手柄を当てにして称える念仏とは次元が異なっている。他力本願の念仏
娑婆世界の善男子、善女人は、「この阿弥陀仏の本願の誓いを聞いて南無阿弥陀仏の名号を執持して、一心に称えれば、体失後即時に浄土に往生し、仏になることができるので、かの国に生まれたいと発願して、念仏申すべきであると説いている。」
※この段は、古来「来迎思想」と自力念仏が説かれているものとされてきたが、このお経では、引き続き、「不可為少善根福徳因縁」と説かれている。
私たち人間の煩悩にゆがめられた有漏な力では、阿弥陀仏のお浄土に往生する清らかな種にはなることが極めて困難であること。たとえば、驕慢心・懈怠心・疑蓋心等によって妨げられる。
阿弥陀仏の方から円融至徳の名号を与えて下さっていることに二心無く信受して、念仏する以外に往生の道は無いと聖人は説いておられるのです。
◎ナムアミダブツのお念仏は、弥陀招喚・釋迦発遣の呼声であり、「必ず救う、そのまんま来いよ。」と誓って下さる言葉なのである。
◎自分の手柄を当てにして称える念仏とは次元が異なっている。他力本願の念仏
【4】この経が真実であることの証拠、証明
●釋迦遺教(一代の結経)。●出世本懐の経 ●無問自説の経と言われている。
①この経は、釈尊と六方の諸仏がその素晴らしい功徳を讃嘆し、且つその教えが真実であると全ての世界の仏方が証誠している。
②また、この経は、五濁の悪世界に喘ぎ苦しんでいる衆生を念仏によってお浄土に救い取り、この上ない悟りを成就させてくれる難信稀有の念仏の教えが説かれている。この経を信じる衆生を一切諸仏が護り、大切に育ててくれているので「所護念経」と言われるので、これを信じ、念仏申すべしと教えている。
③この経の結語として、舎利弗も一切の比丘も天人も阿修羅たちも、釈尊のこの念仏の教えを聞いて、心から歓び、釈尊に最上の敬意と感謝を表した。という結びになっている。
①この経は、釈尊と六方の諸仏がその素晴らしい功徳を讃嘆し、且つその教えが真実であると全ての世界の仏方が証誠している。
②また、この経は、五濁の悪世界に喘ぎ苦しんでいる衆生を念仏によってお浄土に救い取り、この上ない悟りを成就させてくれる難信稀有の念仏の教えが説かれている。この経を信じる衆生を一切諸仏が護り、大切に育ててくれているので「所護念経」と言われるので、これを信じ、念仏申すべしと教えている。
③この経の結語として、舎利弗も一切の比丘も天人も阿修羅たちも、釈尊のこの念仏の教えを聞いて、心から歓び、釈尊に最上の敬意と感謝を表した。という結びになっている。
※出家者も天人も血で血を洗う争いに明け暮れる阿修羅も誰一人漏らすことなく浄土の救いの対象の中に籠められていることを知り、念仏の教えに救われ、歓んでいる姿が述べられており、他力本願の念仏のみ教えの尊さが描かれている。
◎また、お浄土が五逆十悪の人も全て回向して、菩提心を育て、成就させる力を持つが故の救いの宣言であると受け止められる。
◎また、お浄土が五逆十悪の人も全て回向して、菩提心を育て、成就させる力を持つが故の救いの宣言であると受け止められる。
「妙好人のことば」法蔵館出版 梯實圓(かけはしじつえん)著 1500円
2017-01-11
日本の仏教、特に禅宗の奥義を世界に知らしめた鈴木大拙先生が、後に大谷大学で教鞭をとられ、浄土真宗に花開いた妙好人と呼ばれる在野の凡夫の人たちの生き方に出あい、大変感動それました。彼らは、僧侶でもなく、仏教の専門的学問を受けた者でもありません。ただ念仏の教えを聴聞することによって、白蓮華のような信心を花開かせました。
その言葉は、修行を重ねて到達した悟りの言葉よりも、さらに主体的に自分の生の生活体験の中で仏法の教えを通して、思索された珠玉の言葉が記録されていました。大拙先生はそれをまとめて、著書「日本的霊性」として世界に発表されまして大変注目を集めました。
その妙好人の逸話と考え方を再吟味して分かりやすくこの書籍まとめられたのが、本願寺勧学寮頭(西本願寺を代表する宗学の最高権威者)でありました梯實圓先生であります。梯先生は、学問には厳しく、厳密な研究姿勢を信条としておられましたが、その著作物は難しい用語や言葉は一切省いて、万人が安心して読めるような配慮を怠りませんでした。一方、「妙好人のことば」では、在野に妙好人をお育てする勝れた布教使、説教者が活躍していたことを調べて、彼らの逸話や説法も紹介しています。
《妙好人伝に取り上げられている人々》
○大和の清九郎
○三河のおその
○六連島のおかる
○讃岐の庄松
○因幡の源左
○浅原才市
《名布教使》
○日渓法霖
○香樹院徳竜
○一連院秀存
○原口針水
○利井鮮妙
以上、念仏の教えを体験的に知りたい方は、是非一読して下さい。
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TEL:024-542-4306 FAX:024-573-6650