本文へ移動

佛教良書の紹介 「ちょっとお耳を」

巷には、良書といわれる本が満ち溢れていますが、仏教に関する著書となると、難解な専門書や宗派の教義に関するものなど気軽には親しむことが難しいものが多いのですが、実は本願寺出版(本願寺派)をはじめ多くの出版社から心に響く素晴らしい本が出されています。
このページは、毎月住職が選んだ各界の先達の珠玉の言葉を紹介します。

良書の基準としては
①あくまでも自分の体験や考えたことを通して、釈尊のみ教えを味わっていること。

②仏教や阿弥陀仏の教えを先達や知識(師匠)の導きの中で、新たに気付かされる境地を展開していること
 (読み応えや感動が伝わってくる本)

③高価でなく、手軽に購入できる本
 出版社名とその電話番号、時価をお知らせします。
 (現在の値段は各自お調べ下さい)

「ちょっとお耳を」

RSS(別ウィンドウで開きます) 

「観無量寿経に学ぶ」本願寺出版 霊山勝海(よしやましょうかい)著 800円

2016-09-01
 本願寺出版では経典の専門家が仏教の教えを分かりやすく説いているものが多数、お手頃の価格で発行しています。
その中には『①釈尊の教えの真髄とは何か。②その教えの目的とねらいとは何か。③どのような人たちを対象にして法を説いているのか。④何を伝えようとしたお経であるのか。』を主題にしています。

 その出版物の中には。浄土経典や親鸞聖人の専門的な著作物を一般の人が学べるように平易で豊富な註釈が付いた学べる本と念仏の教えをそれぞれの個人の体験を通して仏様の教えを味わった感動的な本とがあります。
※リンクで、本願寺出版を検索してみて下さい。

 この本の著者霊山勝海先生は、前京都女子大教授で本願寺布教使でもあり、大阪の住職さんでもありますが、浄土三部経典の一つである「観無量寿経」を法然上人や親鸞聖人はどのように味わってこられたのかということを信仰の立場より味わって、釈尊の真意を分かりやすく著しています。

 お経は、厄除けや私たちの欲する御利益を叶えてくれる呪文ではありません。
お経は、釈尊が亡くなってから、拠り所を失った弟子たちが、皆で集まってその教えを確認し合って成立したものです。これを仏典結集といい、数百年の間に何回も開かれて、いろいろなお経が成立しました。いわば釈尊の言行録が基本になっています。
 
①この観経は、釈尊の活躍されている時代、強大な国家を形成したマガタ国のギシャクッ山(霊(りょう)鷲山(じゅせん))で阿難尊者を聞き手として説かれました。話は、マガダ国の首都で起きた「王舎城悲劇」として、原始仏教経典や涅槃経にも見ることが出来ます。

②マガダ国王ビンバサラと王アジャセとの父子の断絶。釈尊の従弟、提婆達多の野心による奸言で、アジャセを唆して、王を幽閉して殺そうとさせます。

③そして、息子の非道に気付き、夫を助けようとした母までも殺害しようとしているわが子の現実を前に、憂悩焦躁(ユウノウショウソウ)したイダイケ夫人は、遠くギシャクッ山で説法中の釈尊に助けを求めます。

 父と息子の心の断絶と対立、息子の思いもよらない行動に懊悩する母親、野心家の出現とその奸言に振り回されて、誰を信じてよいか。どうすれば人間関係を修復することが出来るのかが分からなくなってしまうという家族など現代人が直面する深刻な問題が持ち上がります。
○ギシャクッ山で大切な説法をしていた釈尊は、説法を中断してイダイケの前に現れて下さいます。彼女は王妃の象徴である瓔珞を投げ棄て、大地にひれ伏しますが、最初に口に出したのは、愚痴でした。「私は何の罪によって、このような非道の子を産んだのでしょうか。」「お釈迦様はどんな因縁で、あの悪辣なことを焚き付ける提婆達多と従弟なのでしょうか。」
人間は困難に直面するほど自分を守るための言い訳や相手のせいだと罵る愚痴をこぼす。
○釈尊はそれに応えず、彼女を見つめています。
○自分の愚痴の問いに気づいた彼女は、姿勢を正して「この苦悩と不実に満ち汚れたこの世界超えた清らかで安楽の世界に往くべき道を教えて下さい」と
お願いします。釈尊は多くの諸仏の国土を遍く照らし見させます。彼女は多くの女官と共に称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生することを願います。
○阿難とイダイケ夫人は、釈尊亡き後に生まれた煩悩に苦しみ、悲しむ多くの人々が、阿弥陀仏の西方極楽世界に往生するための方法を聞きます。

≪その問いに応えて、阿弥陀仏の浄土に至るための方法が説かれます。≫
①定善...※日想観~雑想観までの天台などで行う極てやり遂げるのが困難な観法修行
②散善...一般僧侶や世俗の人々が行う修行で、上中下の3輩(人間の資質)に分け、更にそれぞれを細かく3品(段階」に分類。計9品に分ける。
・上輩⇒大乗仏教を学び浄土往生を願う
・中輩⇒在家者で十善五戒を守り、善根を積み浄土往生を願う
・下輩⇒五逆(父、母を殺し、修行者や仏を害し、サンガの和合を乱す)
    十悪(殺生、盗み、不倫、嘘や妄語、両舌、悪口を言う。貪欲、瞋恚、愚痴)を行い、自分の罪を自覚せず浄土往生も願わない

①釈尊は、高度な観法である定善から次第に低劣な下輩の現実まで分類して最下の輩(下品下生)のもの善知識に出あい、その指導の下で称名念仏すれば、必ず浄土に生まれ救われると説いている。
②法然上人は善導和尚の導きで、観法の念仏ではなく、声に出して称える念仏を勧めた。このお経のイダイケ夫人は、正に下品下生の存在であり、阿弥陀仏の念仏の力によってしか救われる道は無いことを示している。
③最下の凡夫を救うことのできる教えは、最高の力を持つ教えでなければならない。まさに阿弥陀仏が御自身の生存をかけて成就させて、全ての人を仏にするため如来の功徳を完璧に施した称名念仏が浄業になり、浄土に往生を願う念仏者に育てられて、浄土に摂取されていく道が成就されたのである。

「癌告知のあとで」鈴木章子著 探究社出版 ¥1,500

2016-06-16
 北海道・西念寺の坊守、鈴木章子さんは、幼稚園の園長として活躍中の45歳の時、突然中期の乳がんを告知され、絶望の淵に陥ります。
 
 そんな時、実家の寺の住職である父の「何をオロオロしているのか。傲慢さを捨て、念仏申されよ。」という言葉に目覚めを受け、それからは師と仰ぐ東井義雄さん(この方の著者については次回ご紹介いたします。)の教えを心の支えにして、浄土の一年生として、病院のベッドの上や自宅療養を受けながら常に仏と真向かいに対座して、聞法の喜びを綴るようになります。
 
 「癌という病を得て、残された命を今までと全く異なる価値観でいきられるようになりました。朝起きて家族に、また会えた喜びを素直に伝え、のに咲く一輪の花にも慈しみと感謝の心で拝めるようになりました。」という文で始まる珠玉の言葉は、釈尊の教えに出会い、念仏の生活によって私達の物の見方、感じ方がどのように深められるのかを教えてくれるはずです。
 
 人間の死亡率は百パーセントです。突然自分の氏と直面せざるを得なくなった時、また、愛する人との永遠の別れなどまさに死ぬより辛く悲しい現実に出会った時に、真実の仏はこのわたくしに何をしてくれるのでしょうか。
 
 東井先生は、『観無量寿経』の「諸仏如来是法界身、入一切衆生心想中」(諸仏如来は是れ法界身なり一切衆生の心想に入り給う。)という言葉を引用して、真実のほとけは私たちの心や思いの中にお入り下さって「苦」を超えさせたくださるのだと説きます。
 
 鈴木章子さんは癌の転移による再手術の時、東井先生から励ましの手紙をいただきました。
「如来様は、真如の世界にじっとしておいでになることができず、あなたの病床にお出ましになり、阿弥陀径の『今現在説法』というおことばそのままに、あなたのために現に説法なさっているはずです。
 
 あなたがお気づきになったことはあなたが気づかれたというよりは、如来様が気づかせてくださっているのでしょう。どうかできるだけ努力して、そのご説法を記録してください。記録することによってご説法がいよいよはっきり確かなものになってあなたに届いてくださるばかりか、ご縁のある皆さんにとっても、大切な指針となってくださるでしょう。」
 
 章子さんは、この言葉に勇気をもらい「ご説法はお寺でお坊様から聞くものと思っていましたら、この病床がご説法を聴聞する一等席だったとは…」という言葉に始まる命の詩を亡くなるまで綴ることになるのです。
 
 そしてその詩は、大勢の人の力で『癌告知の後で』という一冊の本になり、多くの病に苦しみ悩む人々の生きるための指針になったのです。
 
 東井先生の「拝まない者も拝まれている。」「拝まない時も拝まれている。」という言葉は、病気にならなければ健康の大切さを実感できない私であり、大切な人の存在を失ってみなければその価値が分からないような私たちは、うっかり者で傲慢で愚かな存在ですが、『人生の真実の喜びを得てくだされよ。』と最高の仏に願われている事を忘れないで下さいと教えてくれているのです。
 
 だから、今は不完全な心でもよい、欠点だらけの自分でもよいから、まず手を合わせ、大切な人の足の裏を揉むところから始まって、声に出して念仏を称え、仏の願いに目を開いてくださいと教えてくださっているのです。 合掌

「拝まない者もおがまれている」 東井義雄著 光雲社刊 ¥1,600

2016-07-22
 
  私の尊敬する念仏者に東井義男さんという方がいます。彼の著書に「拝まれないものもおが
まれている。」という大変感動的な一冊があります。
 
 兵庫県の山村の小さな寺で育った先生は、小学校の教員そして校長として幼少のころから培われた柔らかく人の願いを謙虚に受け入れ、かつ無限の成長を信じる心で児童に接してこられた方で、先生の活動は高い評価と共感を得てきました。この著者は僧侶として、また念仏者として熱き求道の足跡を集大成されたものです。
 
 先生の晩年は、癌の発病・便りとする後継者である長男の突然の難病など多くの辛く悲しいできごとが続きましたが、真摯にこれらの問題を受け入れ、いかに生きていけばよいのというテーマの珠玉の言葉に出会うことができます。
 
 「拝まれないものも拝まれている。拝まない時も拝まれている」という東井さんのテーマは次の一編の詩に表されています。
 
 念仏は聞けば聞くほど深みゆく弥陀のお慈悲とわが愚かさに東井さんがこの詩を詠んだ契機になったのが熊本県の校長をしていた徳永康起さんとの出会いでした。
 
 徳永さん宅に宿泊していた先生は、早朝未明、朝の勤行の準備をしておりましたが、徳永さんがやおら東井先生の足の裏を揉ませてくださいと嘆願されたので渋々揉んでもらいました。先生が恐縮していると「どうぞ帰られたら奥様の足の裏を拝んでから揉んでください。」
と約束させられました。
 
 翌日、夜半に帰宅した先生は半信半疑ながら約束したとおり、奥さんをうつ伏せに寝かせ、手を合わせながら足の裏を揉もうとしました。
 
 すると、結婚した頃の足の裏は柔らかく可愛らしいはずだったのに、今見る足の裏は長年の山里の苦労で熊の足の裏のように固くなっているのに気づき、衝撃を受けます。
 
 妻の苦労など分かっていると頭では理解していても、腹の底からその苦労を労い感謝することを忘れていたという事実に気づいた時の気持ちを表したのがこの詩なのです。
 
 夫婦や親子・兄弟隣人などの人間関係の中で、相手の苦労や悲しみなど十分に分かったつもりでいるかれど、本当は何も分かっていない愚かな自分の姿が照らしだされているのが、実は念仏の功徳の力であります。
 
 分かっているぞと頑張る己の傲慢さを照らし破ってくれるのが本願他力の大きなご利益なのだということを腹の底から実感されたのでした。
 
 徳永さんが東井先生に奥さんの足の裏を揉むことを勧められたのも、自分の念仏生活の実体験の中から我が無知の傲慢の中で大切な物を忘れ、仏を拝まないでいる私に対して仏様の方から大慈悲の心で拝まれ、照らされ、育てられている自分の存在を発見した喜びを東井先生に伝えたかったからだろうと推測されます。
 お問い合わせはこちら
ご相談・お困りごとなどございましたら、お気軽にご連絡ください。
TEL:024-542-4306 FAX:024-573-6650
TOPへ戻る